歴史と娯楽と日常の狭間で

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【人物パラメーター】周公旦

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生没年不詳。本名は「姫旦(きたん)」。周王朝を創始した武王の弟。

 

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 父や兄を助けて、周王朝の基礎を固めました。

 

武王の死後、魯の国をまかされましたが、天下の諸侯が周に背くことを恐れ、幼少であった成王(武王の息子)に代わって、国事にあたりました。任地の魯には子の伯禽が赴き、自らは都にとどまって政務に励んだのです。

 

しかし武王の弟たちは、周公旦が王に取って代わろうとしていると考え、謀反を起こしました。周公旦はこれを2年で平定し、さらに成王が成長すると政権を返して臣下の地位に戻りました。

 

彼は自らの死に際し、「成王を守るためにも都に葬ってほしい」と遺言しましたが、成王は彼を臣下の扱いにはできないと、文王の墓のそばに葬りました。

 

 

将才

8点

政治家のイメージの強い彼ですが、武王の弟らの反乱鎮定や東方異民族の平定等、軍事的にも一定の活躍を果たしています。

戦闘力

5点

建国の功臣にして理想の補佐官ではあったが、こと武芸においては特筆すべきものはありません。

知性

9点

800人の諸侯の心を牽き付けさせた盟津の会盟や牧野の戦い前の武王の演説の原稿は、彼が起草したものだといわれています。人心を掴む術というものを理解していたのでしょう。

また、魯の国を任された時も諸侯の謀反を恐れ、都にとどまりました。そして後年、彼の読み通り武王の弟たちは謀反を起こしました。このことからも、その洞察力にも視るべき物があります。

政治手腕

10点

彼は周王朝の支配を固めるために、周の一族や近親者に領地を与えて諸侯とし、平時には貢納させ、戦時には軍役を課す「封建制」を布きました。

この封建制は、後世儒教を信奉する儒家によって理想的な政治だと評されます。そしてこのような理想的な政治が行われた周王朝は、儒家にとって長らく理想的国家と見なされるのです。

さらに彼は、周の制度を整えるために「周官」、人民のために「立政」、そして王が政道を誤らないように「多士」「母逸」といった文章も残しています。

人望

9点

周王朝が成立して2年後のこと、武王が病に侵されました。憂慮した呂尚(太公望)は不治の病かどうか、吉凶を占おうとしました。しかし周公旦は「ご先祖様に心配をかけてはいけない」と言って占いをやめさせ、自ら生贄ちなって祭壇に立ち、祭文を先祖の霊に捧げました。その祭文を青銅の箱に入れて密封し、番人に他言しないように言いつけました。翌日、武王は全快しました。

その後成王の代の時、「周公旦が王に取って代わる」と讒言する者がいたので、周公旦は楚の国に出奔しました。

成王は周公旦の罪状を確認するため、彼に関する書類を調べさせると「王が天罰により病になったのなら、それはすべて私の責任であります。どうか私を王の代わりに処罰してください」といった、武王が病気になったときの祈祷文が見つかりました。感激した成王は、周公旦を呼び戻して詫びたのです……。

 

このように、彼はとても王室というものを重んじていました。その尊王の精神は、後世あの儒教の祖である孔子も敬愛してやまなかったといいます。

 

 

 

それでは失礼します。

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