歴史と娯楽と日常の狭間で

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【人物パラメーター】呂尚(太公望)

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生没年不詳。周王朝に仕えた武将・政治家。古典小説「封神演義」の主人公としても、有名ですね。ちなみに「封神演義」においては「姜子牙(きょうしが)」と呼ばれています。

 

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周の西伯昌(後の文王)が狩猟の結果を占わせたとき、「獲物は龍や咬龍(こうりゅう)ではない。虎や熊でもない。覇王を補佐する人物である」と卜辞が出ました。

 

狩りに出た西伯昌が渭水(いすい)という川の北岸を通りかかったとき、釣りをしている貧しそうな老人に出会いました。これが呂尚です。

 

呂尚と語り合い、賢者だと判断した西伯昌は、「私の父・太公のときから “やがて周に聖人が現れ、その人物の助けによって国が栄えるだろう” と言い伝えられています。貴方はまさしくその聖人なのでしょう」と言いました。太公が待ち望んだ人物……すなわち「太公望」です。釣り人を「太公望」と呼ぶのは、このエピソードからきています。(西伯昌と呂尚の出会いのエピソードは「史記」等文献によって、異説もあります)

 

その後、呂尚は自分を見出した文王(西伯昌)、武王の2代に仕え、そのいずれの主君からも師と仰がれ重用されました。そして、殷王朝滅亡に功績を立てた彼は斉(山東省)の統治を任されることになります。

 

斉の領主となった呂尚は善政をしき、春秋、戦国時代の大国「斉」の礎を築き上げたのです……。

 

なお一説によると、呂尚は100歳以上も長生きをしたといわれています。

 

 

将才

9点

呂尚の軍事面での功績はとても大きなものでした。崇、蜜須、犬戎(けんじゅう)等の異民族を討伐し、「天下三分し、その二は周に帰す」といわれましたが、それは全て呂尚の将才によるところがおおきかったのです。

 

なお有名な兵法書「六韜(りくとう)」は、呂尚の兵法を後世の兵法家たちがまとめたものといわれています。

戦闘力

5点

呂尚が世にでたのは、68歳だったといわれています。

何分高齢なので、個人的な戦闘能力には期待はできません。

知性

10点

殷王朝打倒の兵を挙げたとき、この挙兵が「王に対する謀反」ではなく「無道の王を退けるための聖戦」であることを宣言し、自らの正統性を示し軍の士気を高めました。

 

さらに孟津の地で諸侯と会盟したときも、いますぐ殷を討とうという諸侯を抑え、一旦兵を帰しています。おそらく殷王朝の命脈が長くは無いとみて、もう少し待てば容易に討てると読んだのでしょう。

 

その2年後、彼の読み通り殷王朝の体制はさらに悪化。今こそ殷を討つべきときと判断した武王は、占いを立てました。結果は凶。これを見た諸侯は出兵を反対しましたが、ただ一人呂尚だけは強く出兵を勧めました。これに従った武王は、見事殷を滅ぼしたのです。

 

以上の話から彼は、軍の士気の重要性を理解できる兵法の知識、戦機と読む洞察力、そして当時としては珍しい占い等の迷信を信じないドライな倫理観の持ち主だということがわかります。

 

彼は、天才的頭脳によってもたらされるこれらの能力により、主君である武王を見事に天下人へと導きました。そして後世「中国三大軍師」の一人に数えられることになるのです……。

政治手腕

9点

殷王朝滅亡後、呂尚は論功行賞をはじめ、紂王によって投獄されていた賢臣の釈放、穀物配給による難民救済等の政策で周王朝成立を容易にしました。

 

さらに統治を任された斉の地においても善政を布き、斉を春秋、戦国時代の大国へと押し上げる礎を築きました。

人望

8点

斉の地において彼は、君臣の礼を簡素化し、多くの民に慕われたそうです。

 

しかし、こと人間関係においては少々ドライなところがあるように思えます。(だからこそのシャープな頭脳ともいえますが……)

彼は周の文王に仕える前、妻を娶っていたのですが、なかなかうだつがあがらないため、妻に逃げられてしまいました。ところが周王朝が成立し、彼の名望が高まると件の妻が復縁を申し出て来ました。呂尚は、お盆に水を汲んで庭先にこぼすと、水をすくってお盆に戻すように命じました。しかし、水はすでに土に染み込んでいます。呂尚は、

「こぼれた水は再び戻すことはできない。それと同じように、われわれが復縁することも無理な相談なのだ」

と言いました。

……人としての筋を通したと言いますか、それとも単に昔の恨みをずっと根に持っていたか、いずれにせよもう少し言いようがあると思うのですが……。

 

さらに彼は、任された斉の地に後の大国への礎を築きましたが、それは裏を返せば、「主君の国である周王朝もいつかは没落する。だから今のうちに自分の子孫のために国を造っておこう」というドライな判断をしていた可能性が考えられるということです。

もしそうだとすれば、彼は主君との関係もドライに捉えていたのかもしれません……。

 

 

それでは失礼します。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。