歴史と娯楽と日常の狭間で

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【人物パラメーター】宋の襄公(じょうこう)

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?~前637年。春秋時代の宋の君主。春秋五覇の一人に数えられることもあります。

 

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前638年に楚と泓水(おうすい)という地で戦った「泓水の戦い」において“「宋襄の仁」という故事を遺した御仁です。

 

 

将才

2点

 ひょんなことから大国・楚の侵攻を招いてしまった宋の襄公(詳しい経緯は「政治手腕」の項を参照してください)は、これを迎え撃つべく泓水という地に布陣します。

 

やがて河を挟んだ対岸に楚の大軍が姿を現わします。兵力においては楚軍の方が圧倒的に有利です。彼らはその数を恃んで宋軍の真正面から堂々と渡河して来ます。そこで襄公の庶兄(側室の生んだ兄)である目夷という人物が、こう進言します。

 

「敵は大軍でわがほうは無勢であります。敵が渡河し終える前に攻撃すべきです」

 

……もっともな助言です。戦争において、平地で正面からぶつかれば数の多い方が圧倒的に有利です。なので数の少ない方は、僅かでも地の利を活かした戦いをすべきです。……ていうかそうしないと勝てません。しかし襄公はゆっくりとかぶりを振りながらこう言います。

 

「全軍が河を渡りきるまで、手を出してはならん!」

 

……えっ!? 少勢である宋が勝てる唯一といってもいいチャンスを無にするつもりでしょうか。いやいや、仮にも一国一城の主、自国の不利になるようなことはしますまい。きっとなにか考えがあるはずです。もう少し様子を見てみましょう……。

 

さて、すっかり渡河を終えてしまった楚軍ですが、なにやら布陣に手こずっているようです。無理もありません。何分大軍なので陣を布くのにも時間が掛かります。そこで目夷がまたも進言します。

 

「攻撃するなら陣容が整っていない今を置いてありません」

 

まさしく! 数で劣り、地の利まで棄ててしまった今、奇襲しか手はありません!

さあ襄公、今度こそ首を縦に振るのか!? 襄公の答えは……!?

 

「敵の布陣が終わるのを待とう」

 

……はっ? もう訳が分かりません…。地の利を得るのもダメ、奇襲もダメ……。

真意を計りかねた目夷は、たまらず非難の声を上げます。それに対する襄公の答えはこうです……。

 

「君子たるもの、人が困窮している最中に苦しめたりはせぬものだ。また、敵の布陣が終わらぬうちに陣太鼓を打って攻めたりもしないものだ」

 

……ご立派なことで(嫌味) 進言を退けた裏には、さぞ名案があるのだろうと思いきや、単に「卑怯だから手を出したくなかった」だけだったとは!! このような精神的ナルシシズムに付き合わされる宋軍の全将兵があまりにも可哀そうです!!

ぶちキレた目夷は反論します。

 

「戦は勝つことが務めです。わが君の仰せられるようにしなくてはならないなら、奴隷として敵に仕えるほかにありません。ことさら戦う必要などございますまい」

 

……そうだ、そりゃそうだ! 誰だって負けると分かっている勝負などしたくはありません。ましてやその敗因を積極的につくっていく馬鹿者が味方内にいる状況なら、なおさらです!

 

……結局この戦いは、宋軍の大敗に終わります……。(当然の結果です)

この戦いから、意味のない馬鹿げた情けを意味する「宋襄の仁」という故事が生まれます……。

 

余談ですが、この戦いが始まるきっかけを作ったのは、ほかならぬ襄公自身であったことをここに記します……。

戦闘力

3点

情けないことに襄公は、上記の「泓水の戦い」において致命的ともいうべき矢傷を負ってしまいます。そして翌年、その矢傷が元で死去します……。

 

わずかでも腕に覚えがあれば、むざむざ致命傷を負うことは無かったはずです。

知性

1点

「泓水の戦い」の直前、実は目夷は出兵に反対していたのです。

しかし、襄公は例のごとくまったく採りあわず出兵してしまいます……。

彼我の兵力をまったく理解していないその判断力、さすがです(苦笑)

政治手腕

3点

前643年、斉の桓公が没すると、生前の桓公から太子・昭の後見人を頼まれていた襄公は、他の諸侯に呼びかけて斉に進軍し、昭の即位を成し遂げました。これによって声望を高めて気をよくした襄公は、大国・楚の後ろ盾を得て、覇者となるべく会盟を行います。(ちなみに目夷はこのとき反対したのですが、聞き入れてもらえませんでした)

 

しかし、会盟の場において楚の王は、「弱小の宋がわしを招くとは無礼である。友好を装って、襄公を辱めてくれるわ」と考え、襄公を捕らえてしましました。

 

その後、なんとか釈放された襄公は、自尊心を傷つけられた恨みを晴らすため、会盟に参加した鄭という国を攻めました。鄭に助けを求められた楚は宋に大軍を派遣します。

こうして「泓水の戦い」が始まるのです……。

 

少しばかりの手柄に気をよくし、彼我の国力の差を省みず覇者になろうとするその外交センス、さすがです(苦笑)

人望

9点

これまで散々けなしてきましたが、彼にまったく美点がないわけではありません。

襄公の父親が死の床についたときのことです。父親が襄公に位を譲ろうとしたとき、襄公は庶兄である目夷に位を譲りたいと申し出ているのです。しかし父親はそれを「兄への義理立てである」として認めませんでした。

とても謙虚な性格が窺われます。

 

散々進言を却下されてきた目夷が、それでも襄公を支えたのは、襄公のその謙虚さに惹かれていたがゆえでしょう。

 

「史記」の作者・司馬遷も「中原の国々が礼儀を欠いていた中で、彼(襄公)には礼譲の心がある」と好意を寄せています。

 

 

それでは失礼します。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。